平子鐸嶺墓碑
当山境内に「平子尚(ひさし)之墓」と陰刻された墓碑があります。傍らには、墓主の経歴や業績を略記した銅板が埋め込まれた石柱が建っています。尚は、「鐸(たく)嶺(れい)」と号した美術史学者で、1877(明治10)年に平子尚次郎の長男として津に生まれました。
平子鐸嶺は、特に法隆寺論争の非再建論者として有名でありました。
西洋画科を出た明治34年(1901)25歳の時、「大和法隆寺再建設につきての疑」という論文を発表しました。『日本書紀』には天智9年(670)庚午の年に火災とありますが、金堂の仏像・台座・天蓋にその痕跡がないことなどを理由に非再建論を唱えました。以後鐸嶺の説が口火となり、いわゆる法隆寺論争、再建・非再建をめぐって学界の長期且つ大きな論争となります。19世紀末からおよそ半世紀にわたって論争が繰り広げられました。
35歳で肺結核で亡くなり、菩提寺である当山に墓碑が建てられました。